水族館の水槽の水泡が綺麗だ、って言ってたくらいで、全然進んでる様子じゃなかったのに。 描いてくれたのだと思うとものすごくうれしくて。 どんなドレスなのだろうとワクワクして。 そのデザイン画を、自分が誰よりも早く見られることによろこびを感じた。「こっち来て?」 宮田さんがいつもの黒いソファーとガラステーブルではなく、奥にある仕事用のデスクのほうへ手招きする。 デスクの周りにいろんなものが乱雑に置かれているそこの椅子へ、ドカっと腰をおろした彼の隣に私は所在なさげにそっと立った。 そして彼はデスクの左側の一番下の引き出しから一枚の紙を取り出して、私にサッと手渡す。「これなんだけど」 見せられたその紙には、最上梨子らしい綺麗なドレスのデザイン画があった。 パステルで軽く色づけまでされている。「これって、例の水泡のイメージですか?」 「うん、そう」 青ではなく、綺麗な水色をベースに水泡のイメージを白のレースで形作られているデザインだ。「どうかな?」 「素敵です。綺麗なドレスになりそう」 腰から下のスカート部分が流れるように滑らかなラインで、特に綺麗。 正直にそう思ったから答えたのだけど、産みの親である宮田さんはなぜか苦笑いだ。「朝日奈さん、これに点数つけるなら何点?」 突如そんな質問が飛んできたから答えに困ってそこで会話が途切れた。 いきなり点数をつけろと言われても……。 ……90点くらい? それじゃあ、あと10点何が足りない? と聞かれそうだ。「うん、わかった」 「え? なにがわかったんですか?」 私がそう尋ねても、彼は言葉を発せずいつも通りニコリと笑うだけだ。 机の上にあったペン立てから適当にペンを手に取り、あろうことかそのデザイン画の上から、乱暴に塗りつぶすようにしてグリグリとペンを走らせた。「あーーーー!! 何してるんですか!」 それを見て、私がそう叫んだのは言うまでもない。「これ、気に入らなかったでしょ?」 私が点数を訊かれて、躊躇ったから? 間髪入れず、100点!って言っておけばよかったのかな。 あぁ、せっかく出来た素敵なデザインだったのに……もうボツなのかな。「いえ、このデザイン素敵ですよ」 「ウソ。気をつかわなくていいよ。僕はこれは60点」 「へ?」 「たとえ
「僕と朝日奈さんの感覚が同じで、良かったよ」 目の前の彼は、あっけらかんとそう言って笑うけれど。 また振り出しに戻ったのかと思うと、私は苦笑いしか返せなかった。「そんな顔しないでよ。 なんとなく頭でイメージが沸いたからといって、実際にデザイン画に描きおこしてみたらどうも違う……なんてことはよくあるんだから」 「そうですよね」 私だって、ピンと頭に思いついた企画や立案をいざ書面にしてみると何かがうまくいかなかったり。 自分ではそのときは良い案だと思ったのに、少し時間が経って冷静になるとそうでもなかったり。 私の仕事ですらそういうことがあるのだから、宮田さんの言っていることは、デザインに素人である私でもわかる。「やっぱりさ、今着てるそのドレスを初めて見たときみたいに、朝日奈さんをパーっと素敵な笑顔にするデザインを描かなきゃね」 そう言われて思い出した。 私が今、オフィスで仕事をする格好ではないことを。「着替えてきます」 「えー、もう着替えちゃうの?」 咄嗟にまた手首を掴まれたけれど、それを振り切ろうと思った時だった ―――「ちょっと! これどういうことなの?!」 入り口のドアがノックもなしにいきなりバーンと開け放たれ、そのセリフと共にメモ紙のようなものを持った女性が部屋の中に入ってきた。 彼女はその紙片を見つめていたため、一瞬私に気づくのが遅れたようだ。 顔を上げて正面を向くと、視界に私を捉えて驚いて歩みを止めた。 濃いグレーのビジネススーツをきちんと着こなしていて、ナチュラルメイクで髪は航空会社のCAのように上品にさりげなくすっきりと後ろでまとめている。 目元がキリっとしていてキャリアウーマンという印象だ。 その女性が、鳩が豆鉄砲をくらったように、目と口をあんぐりと開けて驚きを隠せないでいる。 「……操(みさお)」 宮田さんがボソリとそう呟いて、あきれたように溜め息を吐いた。 一体、この女性は誰なのだろうか。 こんな風に部屋に入ってくるのだからただの事務スタッフではない。 宮田さんは、自分を最上梨子だと知っている人しか、この部屋には基本的に入れないはずだから。 なのでここに出入りできる人間は、本当に限られていると思う。 そして彼女は、宮田さんに対してタメ口なのだ。 ということは、相当親
「突然来るなよ」 「だって、携帯に何度電話しても繋がらなかったの」 「あぁ…電話に出られなかったのは悪かったけど、部屋に入るときくらいはノックくらいしろよ」 「それは……ごめんなさい。まさか、客人がいるとは思わなかったから」 そう言って彼女が私のほうに視線を向け、バツ悪そうにごめんなさいと軽く会釈をした。 反射的に私もペコリと頭を下げる。「もしかして……お兄ちゃんの…彼女?」 「お、お兄ちゃん?!!」 彼女から突然飛び出したキーワードに、私は驚いて思わず大きく反応してしまった。 隣に立つ宮田さんが、その声の大きさにクスリと笑う。「妹だよ。誰だと思ったの?」 妹がいることは、以前聞いたような気がする。 自分とはまるっきり違う、真面目な性格なのだとか。 どうやらこの女性が彼の妹らしい。よく見ると、キリっとした目元が宮田さんにそっくりだ。「えっと……妹の操です。兄はちょっと……いや、かなり変わり者なんですけど、純粋なだけで悪気は全然無いので、いろいろとビックリさせたり迷惑をかけたりするかもしれませんが、嫌いにならないでやってください」 完全になにかを誤解した操さんが、もじもじとしながら申し訳なさそうに、私に一気にそう告げて頭を下げる。 しかも、真剣に、一生懸命に。 その姿を見て、兄想いの優しい人だと微笑ましく思った。「……操、なにをお願いしてるんだ?」 「変人過ぎるのが原因で、彼女に愛想をつかされないようにお願いしてるんじゃないの」 「この人は僕の恋人じゃなくて仕事関係の人だよ」 「え?!」 やはり私のことを恋人だと誤解していたようで、キリっとした彼女の瞳が再び大きく見開かれた。「初めまして。リーベ・ブライダルの朝日奈と申します。今回ブライダルドレスのデザインでお世話になっております」 「そう……だったんですか……。うちの兄が、本当に申し訳ありません! 仕事関係の方にそんなドレスまで着させてよろこぶなんて、ド変態極まりないですよね」 「ちょっと待て。誰がド変態だよ!」
兄妹の会話が面白くて、思わず少し声に出して笑ってしまった。 だって操さんは冗談のつもりは一切無く、至極真面目にそう言ってる。 今度の日曜にふたりで一緒にパーティに赴く事情を知らない彼女は、彼が理由もなく私に強引にドレスを着せて遊んでいるのだと誤解したらしい。 そうじゃなきゃ、仕事上の関係でしかない私がドレスに着替える必要がないと考えるのは当然だ。 ――― それにしても、ド変態はウケる。「違うんですよ。今度パーティに出席する際に宮田さんにドレスをお借りすることになって、さっき隣で試着してたもので。でもこんな格好でここにいたら驚きましたよね」 今更ながら自分がドレス姿なのが猛烈に恥ずかしくなってきて、赤面しながら操さんに説明すると、事情をわかってくれたようだった。「で? 操はなんの用?」 「なんの用?じゃないわよ。これよ、これ!」 操さんは思い出したようにムッとし、持っていた紙片をピラピラとさせながら、こちらへツカツカと歩み寄ってきた。 私は今がチャンスだと思い、ふたりが話している間に隣の部屋に戻ってスーツに着替えようと、そっとその場を離れる。「入金金額、間違ってるよ! ほら!」 「あれ? そうだったか?」 部屋をそっと出て行くときにふたりのそんな会話が聞こえたから、なにか仕事がらみの話なのかもしれない。 言葉の発し方に真剣さをうかがわせる操さんの様子から、なんとなくそう感じた。 隣の部屋でドレスを脱いで、着て来たスーツに着替え終わると再びアトリエ部屋に戻った。 てっきりまだ操さんがいるものだと思っていたのに、その姿は既になく……。「あれ? 操さん、帰られたんですか?」 「うん。僕が振り込んだ金額が違うとかなんとか喚いて、帰って行ったよ」 ……操さんの用事は短時間で済んだみたいだ。 操さんがまだいるのなら、私は自分の用事も済んだし、挨拶だけして帰ろうと思っていたのに。「操が働いてる会社、海外の輸入雑貨を扱ってるんだ。この前久しぶりに会ったらいろいろ仕入れさせられちゃってさ。で、その代金を振り込んだんだけど金額が間違ってるって、あの剣幕だよ。細かいこと言いすぎだよね」 「いや……全然細かくないですよ。振込み金額が間違っていれば指摘されるのは当たり前です」 至極当然だと私が素で言えば、冗談だよとケラケラと宮田さん
日曜日。誘われていたパーティ当日になった。 迷ったけれど私はいつものスーツで最上梨子デザイン事務所を訪れた。 どのみちドレスに着替えるのだから律儀にスーツじゃなくてもいいような気がしたけれど、仕事ではないとはいえ、私の中では少し仕事気分だ。「朝日奈さん、今日もスーツなの?」 よっぽどスーツが好きなんだね、って出迎えてくれた宮田さんがケラケラと笑うのは、この際無視だ。 事務所は日曜だから業務は休みで、スタッフはもちろん誰もいない。 照明もあまりついておらず、昼間でも薄っすらと暗い中、宮田さんの後に続いて、この前の衣裳部屋へと入っていく。 パーティは夜からだけど、今日のスケジュールはこうだ。 まずこの衣裳部屋で、ドレスに着替える。 そして、宮田さんが予約してくれている美容室までタクシーで移動。 そこで髪をセットし、メイクをしてもらったら、そこからパーティ会場までまたタクシーで移動、という予定になっている。「靴、用意しといたよ」 部屋に入るなり、満面の笑みで宮田さんが私にパンプスを手渡す。 色は大人しめなシャンパンゴールドで、ピンヒール。 つま先から外側のサイドにかけて、ストーンが上品にあしらわれているデザインだ。 早速履いてみるように言われ、真新しいその綺麗な代物にそっと足を入れてみた。「どう? 足、痛い?」 「いえ。大丈夫です」 「そう、良かった」 「ありがとうございます。素敵な靴を準備していただいて」 お礼を言うと、「どういたしまして」と宮田さんが余裕めかして笑った。「じゃ、僕も隣の部屋で着替えるから、朝日奈さんもドレスに着替えてね」 意気揚々……とでも言うんだろうか。 宮田さんがなんだか楽しそうに、この前試着したドレスを私の両手に乗せて、そのままひらひらと手を振って部屋を出て行った。「入るよー」 コンコンコンと小気味よく扉がノックされ、着替え終わった宮田さんが再度登場する。 私もそのときには着替え終わっていて、自身を鏡で確認しながら大丈夫だろうかと心配していたときだった。「うん。やっぱり似合うな」 宮田さんのその言葉が私の不安を少しばかり軽減してくれる。 似合っているかは自分ではわからないけれど、ドレスと靴は見事にマッチしていた。 そして鏡に向かう私の後ろから、この前もつけ
「ありがとうございます。宮田さんもすごく素敵ですよ」 少し照れたけれど素直に感想を言うと、当の本人の宮田さんは私以上に照れてしまったみたい。 顔を赤くしたのを私は見逃さなかった。 タクシーを呼んで、二人で美容室へ向かう。 大して事務所から距離は遠くなくてすぐに到着した。 そこはけっこう大きな美容室で、日曜だから来店客で少し混雑している。「マチコさーん!」 受付カウンターの奥にいた女性に、宮田さんが声をかけると、30代後半くらいの女性が振り向いて笑顔を向けてくれた。「宮田くん、待ってたわよ。いらっしゃい」 こんにちは、とお決まりの挨拶を済ませると、宮田さんと私を手招きして美容室の奥にある個室のようなスペースへと案内したこの女性・マチコさんは、ここのオーナーらしい。 私は促されるままに、大きな鏡の前に座らされた。「マチコさん、このドレスに合うようにセットしてね」 「はいはい。最上さんのドレスを台無しにはしませんよ」 「あはは。そこは信じてるけど」 マチコさんは、なんでもテキパキとこなすやり手のオーナーという印象だ。 仕事でお世話になっている美容師だと、宮田さんからは聞いていたけれど、けっこうふたりは親しそうだ。「で、ご希望は?」 「全体を緩くふわふわ~っと巻いて……後は任せる。あ、メイクもね」 「了解」 その会話に私は一切入れず、ただ唖然と聞き入るだけだった。 マチコさんは鏡の中の私ににっこりと微笑むと、私の髪をサラサラといじり始める。「かわいくしてあげるからね。任して!」 「よ、よろしくお願いします」 この人の手で、今から魔法をかけられる…… なんだかそんなふうに感じさせられるほど、マチコさんはカッコいい。「忙しい日曜に、ごめんね」 後ろの椅子に腰掛けて待機している宮田さんが、マチコさんに申し訳なさそうに声をかけた。 美容室の土日は忙しい。 だけど、知り合いである宮田さんの為にマチコさんはわざわざ予約をあけてくれたのだろう。「ほんとだよ。だけど宮田くんの頼みじゃ断れないでしょ。パーティだって?」 「うん。最上さんの代理でね」 「へぇ、いろいろ大変ね」 ――― 今の会話でわかった。 マチコさんは、宮田さんの正体を知らない。 話しぶりからすると親しい間柄のようだし、自分の正体を話して
「で、彼女は……モデルさん?」 「いえ! ち、違います!」 マチコさんのその甚だしい勘違いには、驚いて目を丸くしながら私は全力否定した。 どこをどう見間違うと、私がモデルに見えるのか…。 もはや謎としか言いようが無い。「あ、じゃあ宮田くんの彼女だ。ふたりで仲良くパーティに出かけるってわけね」 私の髪をテキパキと巻いていきながらもニヤリと冷やかすような笑みを浮かべて、マチコさんは私と宮田さんを交互に見る。「か、彼女ではないです!」 「そう、彼女じゃないよ。僕は好きだなんだけどね」 サラっと人前で、どうしてそんなことを言うかな。 恥ずかしいけど、髪をやってもらってるから俯くこともできず、鏡の中の自分を見ると耳が赤くなっていた。「なにをモタモタしてるんだか。こんなにかわいい子なんだから早くものにしないと。ほかの男に持っていかれちゃうわよ?」 好きだと言った彼の言葉にマチコさんはさほど驚くこともなく、説教の混じった言葉を宮田さんに投げかけると、鏡の中の私にニコっと微笑む。 マチコさんの手際は神がかり的で、私の髪は短時間で綺麗に巻かれてセットされた。 あとはメイクだけど…… 助手の人に、あれやこれやと細かく指示を出してメイク道具を準備させていたその時 ―――「宮田くんもやってあげる」 後ろで私の様子を見守っていた宮田さんに、突如マチコさんが近づいてそう言った。「僕も?」 「うん。ワックスつけたらもっとカッコよくなるから!」 そう言いながらマチコさんの手には既にワックスが付けられていて。 宮田さんが必要ないと言っても、やるつもりなんだなと思うと笑いがこみ上げた。 鏡も何もないスペースに座る宮田さんに、マチコさんが魔法をかける。 「できあがり」と呟いてマチコさんが離れると、ワックスで無造作にセットされた黒髪の宮田さんが鏡越しに見えた。 もう……何よ。 黒スーツにアスコットタイ、それだけでも似合っているのに、さらに髪型までかっこよくなっちゃってる。 そうしているうちにメイク道具がそろったようで、今度はマチコさんが私に近づいてくる。 椅子をくるりと横に向きを変えられメイクが始まった。 いつも私が自分でしているナチュラルな適当メイクとは違って、いくつもの筆を使い、丁寧に絵画を描くようにマチコさんが仕上げてい
さすがプロ。ドレスとも合っているし、目はパッチリとしたけれど上品さは残したままだ。 鏡に映る自分を不思議な気分で見つめていると、宮田さんが後ろから近寄ってきているのに気づいた。 彼はなにも言わずに私を椅子から立たせて、自分と向かい合わせになるように正面から凝視する。 ドレス姿の私をじろじろと上から下まで見た後、私の顔に焦点を合わせた。「どうしよう。めちゃくちゃ可愛いよ!」 とびきり嬉しそうな顔をして、宮田さんが思い切り抱きついてきた。「わっ! 」 慌てた私が、咄嗟に驚きの声をあげる。 な、なにをするんですか! 仕切られたスペースだとは言え、美容院ですよ、ここは。「宮田くーん。せっかくのメイクと髪、崩さないでね。今ここでイチャイチャしないで、パーティが終わってからにしなよ」 気持ちはわかるけど、なんて言いながらマチコさんが呆れて笑っている。「うん。パーティ後にはいっぱいイチャつくよ。今キスしたらリップもグロスも落ちちゃうからね」 「え、宮田くんって意外と肉食なのね。まぁ、男は多少肉食じゃないとね。草食なんてダメダメ!」 ……なんという恐ろしい会話をしてるんですか! だけど……私を抱きしめる宮田さんの温もりがやさしくて、彼の上品なスーツから漂うフレグランスの香りに酔いそうになる。 その場を取り繕うように少し抵抗して見せるけれど、ドキドキとうるさい自分の心臓に、私自身が嫌でも自覚させられた。 ――― この人を、意識していると。「二人とも、また来てね」 「うん、ありがとう。またね」 マチコさんがタクシーを呼んでくれて、美容室を後にした。 だいたい、今日の宮田さんは反則だ。 いつもふざけた調子で、なにひとつ真剣なことを言ってる感じがしない人なのに。 今日ばかりは、どこを取っても普通の大人のイケメンだ。 普段とギャップが激しすぎる。 ……だからだ。私もドキドキしてしまったり、いつもと違ったりするのは。 タクシーの中、窓の外の流れる景色を見ながらそんなことを考えていると隣に座る宮田さんが私の手をふいに繋いだ。「朝日奈さんって綺麗な手をしてるよね。……そうだ、今度はブレスレッドやリングもデザインしてみようかな」 繋いだ手をまじまじと見つめながら、彼が穏やかな口調でそう言った。 ジュエリーのデ
それは最上梨子のデザイン画でもあるけど……。 それよりも、宮田昴樹というひとりの男性を守りたいんだ。 騒がれて傷つく彼の姿は見たくない。「それは……どういう意味だ?」 「……」 「俺は……お前はもっと、身の丈を知ってるヤツだと思ってたんだがな」 頑なに頭を上げない私の頭上に、辛らつな言葉が突き刺さる。 きっと私の気持ちは、部長にはお見通しだ。「公私混同するなよ。相手は今をときめくデザイナーだぞ?」 「……すみません」 「最上梨子に、惚れてどうするんだ!!」 「やめてください!」 部長が大きな声で私を叱咤する。 泣きそうになるのをグッと堪えて俯いたままでいると、それを制止する宮田さんの声が聞こえてきた。「彼女を……朝日奈さんを責めないでください」 「……」 「悪いのはすべて僕ですから」 ……宮田さん。「袴田さん、僕の正体のことを誰かに喋りたいのなら、それでも構いません」 宮田さん……なにを言ってるの?「ペラペラと他所で喋って、私になんのメリットがあるっていうんです? 週刊誌の記者にリークして小金を稼ぐとでも? 冗談じゃない。私も元はあなたと同じデザイナーの端くれ。同業者を売るような汚いマネなんてしませんよ。見くびってもらっては困ります」 「いえ……決してそういう意味では……」 袴田部長の勢いに飲まれたのか、宮田さんが難しい顔をして押し黙る。「あなたと朝日奈の間で、なにが約束されて、どういう経緯でこのデザインが描かれるに至ったのか、私は詳しくは知りません。まぁ、もうそんなことは知らなくてもいいです。ですが、私がこの秘密のことを黙っている代わりに宮田さん、ひとつお願いを聞いてもらえませんか」 神妙な顔つきで提案を突きつける部長に、私は隣で息を呑んだ。「お願い、とはなんでしょう?」 「朝日奈は見ての通り不器用で、一生懸命真面目にやりすぎるところがあります。最上梨子の秘密を守りたいと強く思うあまり、最上梨子に恋をしてしまった」 「部長……」 「その呪縛を解いてやってください。朝日奈を……解放してやってください」 呪縛って……そんな言い方ひどい。 しかも部長はなにか勘違いしていると思う。 まるでそれじゃ、私が囚われてがんじ絡めになってるみたいだ。「部長! 呪縛だなんて。勝手に決め付けないでください!」
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。 私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの? せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。 宮田さんは最初に言ったから。 秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。 実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる? それも嫌だけれど、そんなことよりも。 部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。 それは絶対に嫌だ。 だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。 私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。 私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。 ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。 普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。 それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。 色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。 肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。 そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。 元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。 自分で絶好調だと
*** 約束していた翌日。 私は朝一番で袴田部長のデスクへ行き、ブライダルドレスのデザインが出来たことを報告した。 最上梨子の代理として宮田さんがデザイン画を持ってくる件も話し、部長のスケジュールを確認する。「それにしても、突然出来るもんかなぁ」 「え?」 「いやだって、全然進んでないみたいなこと言ってただろ?」 そうやって、少し不思議そうにする部長に、私は満面の笑みでこう口にした。「最上梨子は天才なんですよ」 宮田さんに伝えた時間は十四時。 その少し前に私は一階に降りて宮田さんの到着を待った。 しばらくすると、黒のスーツに身を包んだ宮田さんが現れて私に合図を送る。「お疲れ様。昨日のアレで足腰痛くない?」 「え!!……ここでそういう話は……」 「あはは。緋雪、動揺してる」 ムッと口を尖らせると、彼は逆にニヤっと意味深な笑みを浮かべた。「その顔やめてよ。尖らせた唇にキスしたくなる」 そう言われて私は一瞬で唇を引っ込めた。「あちらのテーブルへどうぞ。言っときますけど今日は“仕事”ですからね、宮田さん!」 「はいはい」 ガツンと言ってやったつもりなのに、この人には全然効いてない。 ……ま、それは以前から変わっていないな。「これなんだけど……」 移動するとすぐに宮田さんは書類ケースから一枚のケント紙を取り出して私に見せた。 テーブルの上に並べられたそれを見て、私は一瞬で驚愕する。「な……なんですか、これは……」 ケント紙に綺麗に濃淡をつけて色づけされたデザイン画。 生地の素材や装飾の内容など、詳しいことは鉛筆で書き込まれている。 それらを見て、私は息が止まりそうになった。「あれ……ダメだった?」 おかしいな、などと口にしながら隣でおどける彼を、 この時 ――――本当に天才だと思った。「マーメイド……。こんなすごいドレスのデザイン、私は初めて見ました。最上梨子は……計り知れない天才ですね」 「……そう? 緋雪に褒められると嬉しいな」 「感動して泣きそうです。行きましょう! 部長に見せに」 テンション高くそう言うと、宮田さんがにっこりと余裕の笑みを浮かべた。
しばらく意識を手放していた私がぼんやりと目を開けると、そこには逞しい胸板があった。 私を腕枕していた手が肩を掴んで、ギュッと身体ごと抱き寄せる。「起きた?」 声のするほうを何気なく見上げると、やさしい眼差しが向けられていた。 目が合うと先ほどまでの情事を思い出して、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。「緋雪は恥ずかしがり屋さんなんだね」 そう言ってこめかみにキスを落とす彼は、余裕綽々だ。「あ、そうだ。頼まれてたデザイン、出来たんだけど」 「デザインって……」 「もちろんブライダルドレス。海のやつね」 「え?!」 以前に彼が自分で採点をしてボツにしたデザインじゃなくて……。 まったく新しいものを描き直してくれたのだと思うけれど。「出来たって……納得できるものが描けたってことですか?」 「うん。けっこう自信あるよ。自分の中じゃ手直しは要らないと思うくらい」 「え~、すごい!」 食いつくように目を輝かせる私を見て、彼がクスリと笑った。「最近、仕事が絶好調なんだよね。急になにか降臨してくるみたいに、ポーンとデザインが頭の中に浮かぶんだ」 「そういうのを、天才って言うんですよ」 「そうかな? 緋雪と結ばれた次の日から急にそうなったんだけど」 香西さんが、最近の彼のデザインを見てパワーアップしてると言っていたし、素晴らしい才能だと絶賛していたことを思い出す。 やっぱりこの人は、天才なんだ。「出来たデザイン、見せてください」 「ごめん、今ここにはないんだ。事務所にあるから」 「じゃあ、明日事務所に行くので……」 「僕が緋雪の会社に持って行くよ」 「え?」 明日の予定を思い出しながら、何時に事務所を訪問しようかと思考をめぐらせていると、宮田さんから意外な言葉が発せられた。 私がデザイン事務所を訪れることが、普通になっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。「うちの会社に、来るんですか?!」 「うん。どのみち出来上がったデザインは袴田さんに見せることになるよね? だったら僕が行ったほうが早いから」 「それはそうですけど……」 「あ、緋雪は一番に見たい?」 その質問には素直にコクリと頷く。 自分が担当だということもあるから余計に、誰よりも早くそれを見たい気持ちがあるのはたしかだ。「じゃあ、袴田さんに会う前
急激に自分の顔が赤らむのがわかった。 彼の言うことはもっともだと思うのだけれど、いざとなると恥ずかしさが先に立つ。「じゃあ……プライベートではそう呼ぶようにします」 「今、呼んで」 「え?!……こっ……こうき」 舌を噛みそうなほどガチガチに緊張しながら彼の名を呼ぶと、クスリと笑われた。「緋雪は本当にかわいい」 「もう!」 「ちゃんとベッドでもそう呼んでね」 からかわないでと言おうとしたところに、逆に彼のそんな言葉を聞いて更に顔が熱くなった。「顔、赤いけど?」 「そりゃ、赤くもなりますよ」 いつの間にか至近距離に彼の顔があって…。 そのなんとも言えない色気に、一瞬で飲み込まれてしまった。「その顔……ヤバい。すごく色っぽい」 「え? ……逆だと思いますけど」 「は? 僕? なにかフェロモンが出てるのかな? 今、めちゃくちゃ欲情してるから」 耳元で囁かれると、電流が走ったように脳に響いた。 彼のくれるキスは、最初は優しくて甘い。だけどそのうち深く、激しくなって……。 舌を絡め取られるうちに、なにも考えられなくなっていく。 手を引かれ、寝室の扉を開けると、彼が私の後頭部を支えるように深いキスが再開された。「緋雪は僕を誘惑するのが本当に上手だね」 ベッドになだれ込んで、覆いかぶさる彼を見上げると、異様なほどの妖艶な光を放っている。「ど、どっちが……ですか」 誘惑されているのは、私のほう。 欲情させられているのも、私のほう。 あなたは自分の持つ色気にただ気づいていないだけ。 ――― 色気があるのは、あなたのほう。 あなたの長い指が、私の髪を梳く。 あなたの大きな掌が、私の胸を包む。 あなたの柔らかい舌が、私の目尻の涙を掬う。「ほら、呼んで? 名前」 ふたりの吐息が交じり合う中、律動をやめずに彼が言う。「……い、今?」 「さっき約束したじゃん」 パーティの夜にも同じことをしたけれど…… 今日の彼はあの時より余裕があって少し意地悪だ。 私には余裕なんて、微塵も無いのに。「早く呼んでよ。じゃないと、僕も限界が来そう」 ほら、と急かされるけれど。 私もやってくる波に煽られて、身体が自然とのけぞってくる。「こう……き。……昴樹……好き」 私の声を聞いて、一瞬止まった彼の律動が
「今日、岳になにをされた?」 感触を確かめながら、私の右手をそっと握る彼の瞳に嫉妬の色が伺える。「全部は見てなかったから。抱きしめられた?」 「いえ、それはないです!」 「だけど、頬にキスはされたよね?」 ……それは、見てたんだ。 というか、二階堂さんも見られているタイミングでわざとやったんだろうけど。「ほかの男でも腹が立つのに、相手が相手だ。緋雪が昔一目惚れした岳だよ?! 僕があれを見て、どれだけ気が気じゃなかったかわかる?」 だから……一目惚れじゃなくて、憧れなのに。「だったらなぜ、私に八年前のことを言わせたんですか?」 私にとっては、もう昔のことで。 ただの憧れだったし、今は綺麗な思い出だ。 だから、八年前のことを二階堂さんに告げてもあまり意味はなかったのに。「緋雪が今も岳のことが心に引っかかってて……要するに好きなんだったら、後悔のないように告白させてあげたかった」 「それで、私と二階堂さんがくっ付いちゃったらどうするつもりだったんです?」 「そしたら……岳から奪う」 彼が、諦める、と言わなかったことがうれしくて。 私の右手を握る彼の手の上に、自分の左手を重ねる。「私は二階堂さんじゃなくて、あなたが好きです」 「緋雪………初めて好きって言ってくれたね」 もっと早く、言うべきだった。 どこまでが冗談なのかわからない彼は、本当は異才を放つ最上梨子なのだ そう思うと、何の取り柄も無い女である私が傍にいるのはためらわれていた。 彼が仕事で関わるモデルの女性はみんな綺麗だから、私より絶対魅力的に決まっている……なんて、歪んだ感情も芽生えたりしていた。 好きだと態度で示されても、気まぐれにからかわれているだけだと思っていた。 いや……思おうとしていたんだ。 彼のデザインを見るたび、彼の作ったドレスに触れるたび、心をギュッと鷲づかみにされてその才能の蜜に吸い寄せられていた。 そんな人に好きだと言われ、態度で示されたら……。 しかもキスなんてされたら……最初から、ひとたまりもなかったのに。「僕も、好きだよ」 彼が心底うれしそうな顔をして、私の右の頬を撫でた。 そしてそこへ、ふわりと口付ける。 今日、二階堂さんがキスした場所と同じところだ。「上書き完了」 そう呟いた彼の顔が妖艶すぎ
「宮田さんにとって、私ってなんですか?」 「え?」 「どういうポジションにいます?」 泣いても喚いても、執拗に詮索しても。 あなたにとって私がなんでもない存在ならば…… 嫉妬したって、それは滑稽でしかない。「一度抱いただけの、仕事絡みの女ですか?」 「違う!!」 弱々しい私の言葉を、彼の大きな声が否定する。「僕は恋人だと思ってるし、緋雪以外の女性に興味はない」 信じないの? と彼が切なそうな表情をする。「こんなに緋雪のことが好きで、思いきり態度にも出してると思うんだけど。僕は自分で言うのもなんだけど一途だし。なのにそこを疑われるなんて……」 不貞腐れたように口を尖らせる彼に、そっと唇を寄せる。 そう言ってくれたことが嬉しくて、気がつくと衝動的に自分からふわりとキスをしていた。 唇を離すと、驚いた顔の彼と目が合う。「良かった。本当に枕営業しちゃったのかと思いました」 「……は?」 それは、パーティの席でハンナさんに言われたことだ。 なぜか今、それを思い出して口にしてしまった。 自分でもどうしてわざわざそれを持ち出したのかと思うとおかしくて、笑いがこみ上げてくる。「あのパーティの夜、宮田さんは……午前〇時を過ぎても魔法は解けないって言ってくれましたけど。朝になったら解けちゃったのかなと……なんとなく思っていたんです」 「どうして? 僕は解けない恋の魔法を緋雪にかけたつもりなんだけどな。あ、いや、ちょっと待って。それじゃやっぱり、僕は魔法使いってことになるじゃん!」 真剣な顔をしてそう抗議する彼に、噴き出して笑う。「不安だったのは、僕のほうだよ」 「……?」 「あの夜は気持ちが通じたと思ったし、心も身体も愛し合えたと思った。だけど、もしも無かったことにされたら……って考えたら、不安だった」 「……そんな」 「僕はやっぱり魔法使いで、王子は岳なのかも…って」 ――― 知らなかった。 宮田さんがこんなふうに思っていたなんて。 二階堂さんと私のことを、こんなにも気にしていたなんて。「宮田さんは王子様兼魔法使いなんですよ」 「……何その“兼”って、一人二役的な感じは」 「それとも私たちは、シンデレラとはストーリーが違うのかも。ていうか、一人二役でなにか問題あります?」 「……ないけど」 気まぐ
手を引かれ、十二階に位置する彼の居住空間へと初めて足を踏み入れる。「お、お邪魔します。お家、ずいぶん広いですね」 おずおずと上がりこんだ部屋には大きめのリビングとダイニングキッチンがあり、話を聞くとどうやら2LDKの間取りのようだ。 まるでモデルルームのように家具やカーテンの色や風合いがマッチしていてパーフェクトな空間だった。 この前麗子さんと話していて、宮田さんはどんなところに住んでいるんだろうと、気になってはいたけれど。 それがこんなに広くてスタイリッシュな空間だったとは思いもしなかった。「ここのマンションの住人には、ルームシェアしてる人もいるみたい。僕はもちろんひとりだけど」 なるほど。ルームシェアもこの広さなら出来ると思う。 なのに贅沢にこの部屋で一人暮らしだなんて……。「緋雪、気に入ったならここに越して来る?」 「え?! 私とルームシェアですか?」 「なにをバカなこと言ってんの! 僕たちが一緒に住む場合は、“同棲”になるだろ」 肩を揺らしてケラケラと笑う彼を見て、拍子抜けしたと同時に私の緊張もほぐれた。 私がはっきりと返事をしないまま、その提案が立ち消えになったことにもホッとする。「いつも事務所じゃコーヒーだけど、今日はビールがいい?」 ソファーに座る私に、彼はそう言ってキッチンからグラスと冷えた缶ビールを持ってきた。「ありがとうございます」 「パーティのとき思ったけど、緋雪はお酒飲めるよね?」 「あ、はい。それなりには」 コツンとお互いにグラスを合わせ、注がれたビールを口に含む。 ゴクゴクと美味しそうにビールを飲み込む彼の喉仏が、やけに色っぽい。 隣に居ながらそれを見てしまうと、自動的に心拍数が上がった。「今日のことだけど。僕が、モデルの子と一緒にいた件……」 ふと会話が止まったところでその話題を口にされ、私から少し笑みが引っ込んだ。「あの子はハンナの後輩なんだけど、けっこう気の強い子でね。ハンナのこともライバル心からかすごく嫌っていて。僕は今日、巻き込まれたっていうか……あの子が、」 「もういいです」 「……え?」 「もう、それ以上聞かないでおきます」 ハンナさんへの当て付けなのか、本気なのかはわからないけれど、あの女性が宮田さんに迫ったんだろうとなんとなく直感した。「言わせて